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神様なんていねぇよ、馬鹿 と叫びながら靴も履かずに家を飛び出したい。願望。夏休みも冬休みも長い休みは嫌いです、なんて言ったら大人に怒られるかもしれないけどすっごい苦手。夏の嫌なところクーラー、苦手。ガリガリ君アイスの実が美味しいところは好き。あと夏の風は優しいから好き。大好きなあの人がツイキャスで歌ってるから今日はいい日。ひっそりと、はじっこにあって、ちっちゃなこと そんなことを大切にしたい。

かみさま、好きなものくらい好きでいる勇気をください。なーんて言いたくなっちゃうくらいには好きなものなんてなかったんじゃないかと錯覚するねこの部屋では。全部なくなってしまえ。破壊衝動爆破チュドーン ポジティブに言って死にたい わーお、言っちゃった言っちゃった。

わたしは鈍い、いろんな意味で。感情の起伏が激しいくせに、それを表すのはヘタクソらしい。不器用かよ。あーー、私可愛い。噓です、はい。もっともっと、死にそうになればいい と思ってる。そうすればきっと私は嫌でも写真が撮りたくなるはずなんだ。感動したい、極限にいきたい。ドMかよ、はっはっは。

写真が撮りたいのに心が全然動きませんってお話でした。ばいばーい。

 

 

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さあ、どうする

 

日本という国は技術の国で、たくさんの素晴らしい機械が生まれて、私たちが暮らしやすくなるための物がたくさん創られている。 いつからみんな歯車になっちゃったんだろう。 自分の頭で考えるってこと、してる? 本当に? 意思もなく船に乗るなんて、そんなことやめない? 沈むかもしれないのに、私はその船には乗れない。 

 

大好きな写真を、胸をはって好きだという事を躊躇ってしまうのはどうしてだろうってずっと思っていた。今日ようやく答えが見つかったので、このブログを書いています。

始めにも書いたように、日本は技術の国だ。技術こそが良いものとされている。 確かにね、機械とか全然わからないけどすごいと思うよ。機械が精密になって、今まで見つけることが出来なかった病気を見つけることが可能になったり、すごいと思ってる、本当に。 でも私はそこに興味がない。 そう、技術には興味がないのだ。

 

それと写真の話がどう関係してるかって? ここから先は私の固定概念でしかないから、1番私が言いたいことだけど、話半分で聞いて(読んで)ね。そして読んでくれたあなた自身が考えてね。

日本人で写真をやっている人の多くは、カメラが好き その技術が好きなんだよ。だから、写真を見せた時に「どうやって撮ったの?カメラは何?レンズは?」って聞くの。 

それは私が1番聞かれるのが嫌いなこと。 カメラやレンズには興味がないし、見るべき場所はそこじゃない。そんな外側のこと聞いたってしょうがないでしょって思う。

興味がないから私はその質問を投げかけられても答えることが出来ない。 外側だけ見られて、技術がないからつまらない写真だって言われることがすごく怖くて、だから人に写真を見せる行為が全然できなかったんだなって今日やっとわかった。 

「どうしてこれを撮ったの?この作品をなぜつくろうと思ったの?」っていうことに興味はないのかな。 写真のみならず、アートに対しても日本は言語がとても乏しい。 きっと私も日本人だから、乏しいんだろうな。 それでも、そんな私でも思うことがあって、写真っていうメディアを選んで制作してる。

 

きっと誰しもそうだと思うんだけど、つまらないって一言で終わらせて欲しくない。 でも、みんなにわかってもらえるなんて無理だ。置いて行くしかない。

私が私のためにやりたいから、どう思われたっていい って、強く言い返せるようになりたい。 そして求めてくれてる人たちと引かれあって共鳴して、わかってくれる人がわかってくれるだけでいい って考え方になりたい。

 

けど、それはまだ先の話かな。

 

さあ、どうする?

 

 

このコラムがいいって話

 

 新納翔さんが書いたこのコラム【http://fugensha.jp/?p=1938 】が興味深くてとてもよかった。

 何が良いって、まずは新納さんの写真がものっすごく好みであるってこと。身近な世界に溢れている違和感を撮れるというか、きっと目の前にあっても見ているだけでは気が付かない、写真になることでより違和感になる、みたいなものがたくさん写っててすごく好き。写真を語る言葉がもっと欲しいなと思う今日この頃。

 

 

 『少なくともスマートフォンにおいて、「読む」時代から「見る」時代へとシフトしていくのはしごく当然の流れだと感じる。』 コラムより引用

 ほーーーん。確かに、なるほどと言いたくなる。実際私はTwitterを多用することで、短い文章しか書けなくなったように感じる。(だからたまにこうやってリハビリをしている)ていうか、実際Twitterって文字を並べているけど、読んでるって認識ないよね。もはやすでに「見る」時代か。

 

 インターネットにきちんとつくった作品を載せたくないと思うのは、インターネットじゃ多分意図が伝わらないなと思ってしまうからと、流して見られたくないから。見るという行為が自発的であってほしい。見るならしっかり大切にみてほしいんだ、我が儘なんだけど。でも正直そんなこと言ってる場合じゃないのもわかる。SNSが発達して、いろんな人が今までは名乗れなかった肩書きを簡単に名乗れるようになった。みんな写真家だしフォトグラファーだし、モデルだし、小説家にだってなれる。名乗るだけタダ、みたいな時代だな。自己のプロデュースがうまい人が成功する世の中にどんどんなってきているのかもしれない。

 

 写真って一言で言ってしまうけどたくさん種類があって、わたしの中にだって写真っていわれてそのなかで分類してるものが4つくらいある。いや、もっとあるかな?私がいう写真と、君がいう写真が一緒であるなんて思ってないから、もっとわける言葉があったらいいのにって思う。そしたらもっとわかりやすくなるのになあ。こういう時に私が今話している写真の定義から話すのって、興味がある人からしたら面白いかもしれないけど、あんまり興味がない人に話したところで長ったらしい説法を聞いているかのような気分になるんだろうから、まあ簡潔に「写真」って二文字で終わらせるけどさ。

 世の中の言葉に対して、こんなこと言い出したらキリがないんだけどね。いつの間にかコラムの話からすごくズレたな。

 

 終着点が分からなくなってきたから、ここでやめます。強制終了、ポチッ。ちゃんと一貫して文章が書けるようになりたい。みんな、このコラム ↓↓ 読んでね。写真みるだけでもすごく楽しいよ。 

 

写真家・新納翔さんの撮り下ろし連載コラム『Peeling City』第11回「写真家とSNS / 写真の著作権を放棄せよ」 

 

インターネットのこと

 

 

やっぱり文章を長く書くことって大切だと思うんですよ。

インターネットを始めて、それからSNSに出会って、短い文章とばかり触れ合う日々。自分の思いがたった140字で伝えられるなんて思ってもいない。でも無意識にその枠におさめたくなるし、はみ出たところで発信出来ない。だから無理矢理におさめる。( ◁ちなみにここまでで140字 ) そうするとあら不思議、本当に言いたかったことの表面も伝わらない。というかむしろ間違って捉えられて、あらぬ誤解をうんでしまうこともしばしば。それを知ってるから、眠いとかお腹すいたとかそういう言わなくてもいいことばかりつぶやいてしまうんだろうなあ。

インターネットは海だし闇だしブラックホールだし、なんにもなくてからっぽだってこと、知ってる。期待したところでここにはなんにもないのだ。それを知っているだけでちょびっとの優越感に浸れてしまうこの世の中はちょろい。最近の若者はSNS中毒だとか繋がり依存だとかそういう話題をよくみるけれど、こんなところに依存したところで対面しないとなんにもならんぞ。もっと目の前のものだけを大切にして生きてもいいんじゃなかろうか。私は私の手が届く範囲のものを大事に大事にして生きていきたい、とぼんやり思っている。

 

 

 

思っていることを文章にするってすごい。この間本屋さんで、朝井リョウさんが新しい小説のPOPに「今、頭の中にあるものを全て吐き出しました。」ってコメントを書いていて、月並みな感想だけど文章を書く人ってすごいなあって思った。

私は頭の中を吐き出そうとして文章を書き始めても、その一瞬からでもどんどん考えが変わっていくので書ききれないし、書き進めるにつれて書き始めた私の考え思いがどんなだったかわからなくなる。みんなそうなんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろうか。

 

終わりが見えなくなってきたので終わろう。こうやってちょっとずつ思っていることを言葉にする作業をひっそりやろうと思う。